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フィガロの結婚


2006モーツァルト・イヤー(生誕250年)のザルツブルク音楽祭でプレミエとなったクラウス・グート演出の歌劇『フィガロの結婚』の日本公演を観ることができた。プレミエでのプロダクションはスザンナ役にネトレプコ、ウィーン・フィル、アーノンクール指揮で既にCDやDVDが発売されている。2008年日本公演でもスザンナ役他ほとんどの歌手が入れ替わり、指揮には1983年生まれのロビン・ティチアーティ、ピリオド楽器のオケ、エイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団(OAE)というこれはこれで興味深いプロダクションとなった。
さて行ったことはないがザルツブルクと上野公園、モーツァルト・ハウスと東京文化会館とのギャップを先ず乗り越えなければならない。些細なことと気にしない人はとても幸せな人だと思う。少しスノッブで小心者のぼくにはとてもできないことだ。でもここはオペラとは縁の薄い極東の大都市であるからしかたがない、と言い聞かせて自己処理をするしかない。ただもう少し何とかならないものですかねぇ、ここも。レトロでかわいいじゃん!と言えないこともないのかもしれない61年生まれのこのホール。リノリウムの床、小さい椅子、垢抜けないホワイエだけでも改装の検討をしても良いのでは。余計な気を使ったりオペラとは無縁の郷愁に浸っていると案外時間が潰れ開演となった。若き指揮者が盛大な拍手で迎えられ、小さいピットは一瞬の静寂に包まれた。E.MARINELLAのタイを少し緩め、序曲最初の一音に全神経を集中させる。
ガクッ、音がハズレているのではないかと思った。音量、ダイナミックレンジが極めて不自然で狭い。無論ピリオド楽器だからではない。一階三列左端の席だがそれを引いてもうちのほうが音が断然いいと思った。落胆したが序曲が終盤にさしかかり、舞台の緞帳が上がると音の抜けが良くなり、音の調子、ダイナミックレンジとも正常なものとなった。巨大な幕が音を吸収していたらしい。これは音響の初歩的な問題ではないだろうか。こういうことなら照明で対応したほうが良かったと思う。ジョン・カルショーやウォルター・レッグの耳を持たずともおかしいと感じないのは不思議だ。指揮者のティチアーティは絶対にそれを感じていたはずだと思うが。
そういうわけで序曲に音響的な問題があったのは残念だったが、ティチアーティとOAEは終止透明感のある演奏で好ましいものだったと思う。また中性的な印象を受けたのはピリオド楽器のせいかもしれない。そのような意味では小姓ケルビーノ(中性的)の分身として、台本にはないパントマイムのケルビム(智天使)を恋愛と運命のフィクサー役として加えたグート演出と演奏が同期しているような気さえする。また指揮者ティチアーティも童顔であり、偶然にも奇妙な関係を形成している。さてケルビムがリビドーを担当している様が、少しあからさまで単純と感じるか否かは個人によるところかもしれない。ケルビムとカラスの死骸などとの隠喩の間には少し異質な、舞台と映画のような、西洋と東洋のような距離感を持ったが全体としては十分に楽しめた。
舞台美術や衣装が古式でなくても良いと思うし、現代人にフィットする演技が大胆でストレートになるのも理解できる。グートもその線上にあるし、グート演出ではケルビム=リビドーによって登場人物たちは既に抜き差しならない関係を持ち(カラスの死骸)、愛憎の中にいることが明確化されている。曖昧さはない。曖昧さがないので対立関係が現代的になる。現代的でシリアスな愛憎劇から焦点を当てると、背景にある階級社会が逆にコミカルな部分として映し出された。その今日的な演出の精神とモーツァルト音楽とが相容れないとは思えなかった。が同時に音楽が染み込むように入ってくるとも思えなかった。しかし作品として大切なものは照明なども加えた総合的で緻密な演出効果、そして何よりメッセージではないだろうか。
| Toru Tachizawa | 22:25 | - | - | pookmark |
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